北条守時は鎌倉幕府十六代の執権。
最後の執権となりました。
北条氏赤橋流のため、赤橋守時とも呼ばれます。
父は北条久時。
赤橋家は、六代執権を務めた北条長時を始まりとしています。
鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)の近くに屋敷があったことから「赤橋」と呼ばれ、得宗家に次ぐ家格であったといわれています。
1326年(正中3年)3月、十四代執権北条高時がその職を辞します。
得宗家の内管領長崎円喜と得宗家の外戚安達時顕が対立する中の3月16日、十五代執権には金沢流の金沢貞顕が就任します。
しかし、貞顕は、わずか10日で執権職を辞任して出家してしまいます。
その後、十六代執権となったのが守時でした(参考:嘉暦の騒動)。
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~足利尊氏と守時の妹登子~
守時の妹登子は足利高氏(尊氏)に嫁ぎました。
1333年(元弘3年)、高氏は幕府の命によって、後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力を鎮圧するため西国に出発します。
『太平記』によると、高氏はこのときすでに幕府への反逆を決意していたといいます。
妻登子と嫡子千寿王(義詮)は鎌倉に人質として残されますが、高氏が天皇方に付くと鎌倉を脱出し、千寿王は新田義貞に奉じられて鎌倉攻めに参加したといいます。
鎌倉幕府を裏切った高氏は、5月7日、六波羅を陥落させています。
5月8日には、新田義貞が倒幕の挙兵をしました。
そして、5月18日がやってきます。
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~守時の最期・・・洲崎の戦い~
足利高氏の裏切り、妹登子と千寿王の鎌倉脱出によって、幕府内での守時の立場は悪くなります。
守時も「裏切り者」として見られていたようです。
そんな中、新田義貞が、各地で幕府軍を破り鎌倉に迫ってきました。
守時は新田軍を迎え撃つため洲崎に出陣します。
しかし、守時率いる幕府軍は敗れてしまいます。
侍大将南条高直は、巨福呂坂まで退いて援軍を待つよう進言しますが、
守時は、
「疑いをかけられては、しばらくも命を長らえるべきではない。」
と言って潔い死を選択したといいます。
1333年(元弘3年)5月18日、鎌倉幕府最後の執権赤橋守時は洲崎で自刃しました。
そして、その数日後の5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。
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