これに源氏と平氏が加わり、世の中を変える合戦となりました。
~白河法皇の院政開始~
1086年(応徳3年)、白河天皇は、第二皇子の善仁親王(堀河天皇)に譲位し、上皇となって院政を開始し、これまで政治の実権を握っていた摂関家に代わって、白河上皇が全権を掌握しました。
※白河上皇は、1096年(嘉保3年)に出家し法皇となります。
1107年(嘉承2年)、白河法皇は、堀河天皇が崩御すると、孫で5歳の宗仁親王(鳥羽天皇)を即位させ、引き続き幼少の天皇に代わって全権を掌握します。
「院政」(いんせい)・・・
天皇の直系尊属である上皇が、天皇に代わって政治を行うこと。
~鳥羽天皇の中宮璋子が生んだ子・・・~
1117年(永久5年)、権大納言藤原公実の娘で、白河法皇の養女だった璋子(待賢門院)が鳥羽天皇の中宮として入内します。
1119年(元永2年)には、第一皇子(顕仁親王)が誕生しますが・・・
顕仁親王は、「実は鳥羽天皇の子ではなく、白河法皇の子だった」ともいわれています。
※鎌倉時代の説話集『古事談』は・・・
「待賢門院が生んだ顕仁親王(崇徳院)は、白河院の御胤子で、鳥羽院もそれを知っていた」
と伝えています。
そして・・・白河法皇は、1123年(保安4年)、鳥羽天皇を退位させ、顕仁親王(崇徳天皇)を即位させます(5歳)。その後も白河法皇の専制が続きました。
~鳥羽院政~
1129年(大治4年)、白河法皇が没すると、鳥羽上皇が院政を開始します。
鳥羽上皇の院政は、これまでの白河院政の反動となります。
その第一に、鳥羽上皇は近臣の入替を行います(※平忠盛(清盛の父)などはうまく生きのびていますが・・・)。
特に、白河法皇に内覧を停止され宇治に籠居していた藤原忠実が呼び戻され、再び内覧の宣旨を受けています。
※内覧とは、天皇に奏上される文書を見る職務。
忠実が呼び戻されたことで、関白の地位にいた忠実の長男忠通の立場が有名無実のものとなり、摂関家の内紛へと繋がっていきます。
~美福門院の入内と近衛天皇の即位~
さらに鳥羽上皇は、璋子(待賢門院)に代えて、藤原長実の娘得子(美福門院)を寵愛して入内させます。
1139年(保延5年)には、得子(美福門院)との間に、躰仁親王が誕生しました。
そして、1141年(永治元年)には崇徳天皇を退位させ、2歳の躰仁親王(近衛天皇)を即位させています。
『愚管抄』によれば・・・
鳥羽上皇は崇徳天皇に対し、躰仁親王を天皇の子として譲位するよう勧めたといいます。
崇徳天皇も皇太子として譲位したようですが、譲位の宣命には「皇太弟」と書かれてあったそうです。
※「皇太子」であれば院政を敷くことができますが、「皇太弟」では院政を敷くことができません。
この事件は、のちの「保元の乱」の一因となります。
その後、鳥羽上皇は、1142年(康治元年)に東大寺戒壇院で出家し法皇となり、後白河天皇の代まで実権を掌握することになります。
~皇位継承問題~
1155年(久寿2年)7月23日、近衛天皇が亡くなります。近衛天皇には子がありませんでした。
これまで皇位は、
白河天皇
↓
堀河天皇(白河天皇の皇子)
↓
鳥羽天皇(堀河天皇の皇子)
↓
崇徳天皇(鳥羽天皇の皇子:母は藤原璋子(待賢門院))
※白河院の子とも・・・
↓
近衛天皇(鳥羽上皇の皇子:母は藤原得子(美福門院))
と移ってきました。
さて・・・、次の天皇を誰にするか・・・
当時の朝廷内の実力者は、鳥羽法皇の妃藤原得子(美福門院)。
得子は、自分が養育係をした守仁親王を即位させようと考えます。
※守仁親王は、崇徳上皇の同母(璋子(待賢門院))の弟雅仁親王の子。
しかし、父の雅仁親王が存命にもかかわらず、子の守仁親王を即位させることはおかしいという議論となり、雅仁親王が即位し後白河天皇が誕生しました。
守仁親王は皇太子となっています。
(参考:平治の乱~源氏勢力の壊滅~)
※我が子重仁親王の即位を望んでいた崇徳上皇は、当然、雅仁親王の即位に不満をもっていました。
~摂関家の内紛~
鳥羽上皇の院政が開始されたことによって政界に復帰した藤原忠実は、長男で関白の忠通より、次男の頼長を愛していたといいます。
1125年(天治2年)、忠実は、頼長を子のない忠通の養子としますが、忠通は、1143年(康治2年)に実子基実が誕生すると、家督は実子に継がせたいという思いから頼長との縁組を破棄します。
1150年(久安6年)には、頼長が養女の多子を近衛天皇に入内させると、忠通も養女の呈子を入内させて対抗します。
とうとう忠実は、氏の長者の地位を忠通から取り上げて頼長に与え、翌年、頼長を内覧の地位にしてしまいます。
しかし、1155年(久寿2年)、近衛天皇が亡くなって、後白河法皇が即位すると、頼長は近衛天皇を呪詛したとして失脚します。
~保元の乱~
こうした状況の中の1156年(保元元年)7月2日、鳥羽法皇が崩御します。
そして、皇位継承に不満を持っていた崇徳上皇が兵を起こし、「保元の乱」が勃発します。
「保元の乱」は、朝廷・摂関家・源平を二分した合戦となりました。
※源為義と源義朝は親子、平忠正は平清盛の叔父。
※平清盛は、崇徳上皇の皇子重仁親王とは乳兄弟でしたが、藤原得子(美福門院)のはからいで後白河天皇方に参加しています。
7月11日未明、後白河天皇方は、崇徳上皇方に白河北殿に夜討ちをかけます。
火をかけられた崇徳上皇方はあっけなく敗北し、崇徳上皇と藤原頼長は逐電し、源為義以下の武士も行方をくらまします。
その後、後白河天皇方の追及により、崇徳上皇は13日に投降。
14日には公卿の藤原教長、藤原成隆が自首、16日には源為義が子義朝を頼って自首、21日には藤原頼長の死が確認され、崇徳上皇方の武士が処刑されています。
(参考:安井金毘羅宮)
8月3日、頼長の子息及び崇徳上皇の廷臣が流罪、23日には崇徳上皇が讃岐に下っています。
源義朝の弟為朝は、8月26日に逮捕され、伊豆大島に流されました(参考:六角ノ井)。
乱後、源義朝は左馬守に、平清盛は播磨守に任ぜられています。
武家が頼りにされる世が始まりました。
『愚管抄』は、保元の乱を「武者の世の始まり」と伝えています。
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伊豆大島に流された源為朝が、腕試しのために鎌倉の天照山に向けて放った矢が落ちたのが鎌倉十井の一つ「六角ノ井」だったのだといいます。
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