1185年(文治元年)11月3日、源頼朝と対立して都を落ちた源義経。
11月6日、九州へと船出しますが摂津国大物浦で難破した後、姿をくらまします。
11月17日には、義経の妾・静御前が義経と別れた吉野山で捕えられ、翌1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られました。
『吾妻鏡』5月13日条にも、義経が叔父の源行家とともに京都に潜伏しているという噂や、比叡山に匿われているかもしれないという記事が載せられています。
延暦寺は、788年(延暦7年)、最澄によって開かれた天台宗総本山。
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畿内一帯に下った頼朝の厳命もあってか・・・
5月12日、源行家が和泉国小木郷の日向権守清実宅にいるという密告があり、北条時定、常陸坊昌明らが討手として向かって誅殺されています。
行家は源為義の十男。
源頼朝に以仁王の令旨を届けた人物ですが、頼朝と対立し、壇ノ浦の合戦後は義経に近づき行動を共にしていました。
6月6日、義経の母・常盤御前が一条河崎観音堂の辺りで捕えられます。
『玉葉』によると、義経が岩倉(現在の京都市左京区)に潜伏していると証言したのだといいます。
一条能保は、義経が仁和寺や岩倉のあたりに隠れているという情報を得て梶原朝景、後藤基清らが逮捕に向かったが、その事実はなかったという報告を鎌倉にしています。
また、現在は比叡山にいるという噂があるとも報告しています。
(※一条能保は頼朝の妹婿。)
6月16日、大和国宇多郡で源有綱が発見され、北条時定と合戦した後、深山に入って自刃しています。
有綱は以仁王とともに平家打倒の挙兵をした源頼政の孫で、義経の娘あるいは養女を妻としていたのだという説もあるようです。
『吾妻鏡』にも、有綱が義経の婿だとする記述があります(1185年(元暦2年)5月19日条)。
7月25日、鈴鹿山に逃亡していた伊勢義盛が誅殺されます。
こうして探索は義経に近づいて行くように思われましたが・・・
仁和寺は、886年(仁和2年)、光孝天皇が「西山御願寺」の建立を発願し着工されたことに始まる。
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閏7月10日、鎌倉に到着した一条能保の報告によると、義経の雑用を務めていた少年・五郎丸が捕らえられ、義経が6月22日頃まで比叡山にいたことを白状します。
また、俊章・承意・仲教らの僧兵が、義経の庇護をしていることが明らかになります。
能保は、この事を天台座主全玄と慈円に伝え、後白河法皇にも奏聞したそうです。
(※慈円は九条兼実の弟。)
そして、義経の名は、九条兼実の子・良経と同じ呼び名であることから、義行(よしゆき)と改名したことが伝えられています。
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閏7月16日、鎌倉に到着した一条能保の報告によると、義経を庇護した僧兵を差し出すよう天台座主全玄に申し入れますが「すでに逃げてしまった」という返事だったとのこと。
それでも比叡山の僧兵が義経を匿ったということは重大な事件です。
山に兵が入るような事になれば、比叡山の仏教が滅びてしまうかもしれません。
後白河法皇は、閏7月16日、九条兼実をはじめとする公卿らに事態収拾を協議させ、比叡山の東塔、西塔、横川の末寺や荘園の全てに通知し、直ちに探し出して逮捕するよう命じています。
その結果、義経を匿った3人の僧兵が差し出されたとのこと。
それでも義経の行方は不明のままでした。
その頃、鎌倉では静御前が義経の子を出産。
しかし、生まれた子が男子だったため、頼朝の命によって由比ヶ浜に捨てられています。
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