小笠原長清(おがさわらながきよ)は、高倉天皇の下で滝口武者として活躍した甲斐源氏・加賀美遠光の次男。
甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜りました。
母は杉本義宗の娘(和田義盛の娘という説も。)。
妻は上総広常の娘。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』によれば、
1180年(治承4年)10月19日、平家軍を迎え撃つため黄瀬川の宿所にいた源頼朝のもとに参陣しています。
それまでは平知盛の被官として京にいましたが、母の病気を理由に帰国を許してもらたのだそうです。
その後は、頼朝の御家人として活躍し、信濃守に任じられました(長清は信濃守護家小笠原家の祖)。
馬術・弓術に優れた才能を発揮し、海野幸氏・望月重隆・武田信光とともに弓馬四天王の一人に数えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1188年(文治4年)正月20日の二所詣や1193年(建久4年)5月の富士裾野の巻狩りに随行。
1193年(建久4年)8月16日の鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬では射手を務めました。
1194年(建久5年)には、頼朝の命により東大寺大仏殿の多聞天像を造立負担をしています。
(東大寺大仏殿)
※現在の多聞天は長清の時代のものではありません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~那須野の巻狩りで選ばれた弓馬の達人~
1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りに先立って催された那須野の巻狩り。
このとき頼朝は、弓馬術に優れた腹心の者22名を選んで弓箭を帯びさせました。
他の者は一万騎もいたそうですが、弓箭を帯びず勢子の役をしたのだそうです。
22名に選ばれたのは、
北条義時
武田信光
小笠原長清
里見義成
千葉成胤
榛谷重朝
藤沢清親
渋谷高重
望月重義
工藤行光
狩野宗茂
宇佐美助茂