箱根神社は、かつて箱根権現と称されていました。
河内源氏との関係は深く、前九年の役に出陣した源頼義、源義家が参拝し、源為義と源義朝は「東国輩」に対する動員催促権を与えたのだといいます。
源義経奉納という太刀「薄緑丸」(うすみどりまる)も残されています。
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1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は箱根権現の別当・行実とその弟・永実を頼ります。
『吾妻鏡』によれば、行実は父は良尋。
良尋は、源為義や源義朝と好を通じていたそうです。
京都にいた行実が父の跡を継いで箱根権現の別当に就任する際、為義は「東国の家人の召集権」を、義朝は「駿河、伊豆の家人の召集権」を行実に与えたことが記されています。
伊豆配流の身だった源頼朝も箱根権現を崇敬し、行実も頼朝に気をかけていたようです。
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そういった関係から、箱根権現に頼った源頼朝でしたが・・・
翌日、行実の弟・良暹が僧兵を集めて頼朝を襲おうとしていることが判明。
良暹は、数日前に頼朝が討ち取った山木兼隆の祈祷師をしていたそうです。
行実は「良暹を恐れることはないが、大庭景親がこれを聞きつけて攻めてきたらいけないので逃げた方がいい」と進言。
頼朝は、土肥實平、永実とともに土肥郷を目指します。
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参考までに・・・
北条時政は、山伏の道を通って甲斐国へ向かったそうなのですが・・・
ただ、頼朝が落ち延びられるかどうか分からないのに、甲斐源氏の応援を頼んでもどうなのかと考え、頼朝の後を追ったのだそうです。
前日、嫡男の宗時が討死したときも甲斐国へ向かったはずの時政でしたが・・・。
『吾妻鏡』の記録では時政が何を考えていたのか、ちょっとわかりません。
源頼朝は8月28日に真鶴から安房国へ向けて船出しますが、時政は頼朝より先に安房国へ渡っているようです。
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