1159年(平治元年)に起こった平治の乱。
この戦いで、源義朝をはじめとする有力な源氏武士が滅亡。
勝利した平清盛は武士の第一人者となりました。
1167年(仁安2年)には、武士としては初めての太政大臣に昇り、全盛期を築き上げていきましたが、後白河法皇との間に亀裂が入るなど、次第に平氏政権がゆらぎ始めます。
1179年(治承3年)11月、クーデターによって後白河法皇を幽閉。
翌1180年(治承4年)2月には、娘徳子の生んだ安徳天皇を即位させ独裁政治を行っていました。
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~以仁王挙兵~
『吾妻鏡』によれば、1180年(治承4年)4月9日、源頼政は子の仲綱とともに以仁王の三条高倉御所へ行き、平家打倒を進言。
以仁王はその申し入れを聞き入れ、伊豆の源頼朝をはじめとする源氏に令旨を発しました。
(※親王宣下もされていない王の命令書は「令旨」とは言わないようですが・・・)
その令旨は4月27日に伊豆の北条館にいた頼朝のもとに到着。
頼朝は水干を着て、源氏の氏神・石清水八幡宮を遙拝してから読んだのだといいます。
(伊豆の国市)
(京都)
しかし、以仁王の計画は5月初めには平家に知られてしまいます。
5月15日、以仁王は園城寺(三井寺)に入り、19日には源頼政も近衛河原の自邸を焼き払い園城寺に入ります。
(滋賀大津)
ただ、園城寺には僧兵が少ない事から、5月26日、南都へと向かうのですが・・・
宇治で平家軍2万騎に追いつかれ、以仁王と頼政は討死しました(平等院の戦い)。
(平等院塔頭・最勝院)
源頼政は、源頼光を祖とする摂津源氏。
平治の乱後、源頼朝が伊豆に流されたのは、頼政が伊豆守だったからという説もあるようです。
「平家にあらずんば人間にあらず」とまで言われた清盛政権の中で、源氏では珍しい従三位に叙せられ「源三位」と称されていました。
源頼政
以仁王
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~南都とは・・・~
以仁王と源頼政が目指した南都とは興福寺のこと。
平安時代末期、興福寺・延暦寺・園城寺(三井寺)・東大寺などを拠点に僧兵が強大な武力集団を組織していました。
「南都北嶺」という言葉がありますが、南都は興福寺、北嶺は延暦寺を指します。
興福寺の僧兵は「衆徒」あるいは「奈良法師」、延暦寺の僧兵は「山法師」と呼ばれていたようです。
白河法皇は、自分の意のままにならないものとして、
☆賀茂川の水
☆双六の賽
☆山法師
を挙げていたのだといいます。
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その後・・・
6月2日、清盛は福原京へ遷都を強行。
8月17日、源頼朝挙兵。
10月6日、源頼朝鎌倉入り(10月7日という説も)。
10月20日、富士川の戦いで平家軍敗走。
11月26日、平安京に還都。
12月28日、南都焼討。
翌年閏2月4日、平清盛死去。
やがて、京は木曽義仲に奪われ平家は都を落ちます(1183年(寿永2年))。
その後都に戻ることなく、1185年(文治元年)3月24日、源頼朝によって壇ノ浦に滅ぼされました。
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