末多武利神社は藤原忠文の怨霊を鎮めるために建てられたという神社。
忠文は平将門の乱を鎮圧するため征東大将軍として東国へ下りますが、到着する前に将門は藤原秀郷らによって討たれてしまいます。
そのため恩賞がもらえませんでした。
忠文はそのことを深く恨んでいたのだといいます。
神護寺明王堂の弘法大師作という不動明王像は、平将門調伏のために下総国へ運ばれたのだといいます。
東寺毘沙門堂の兜跋毘沙門天像は平将門の乱の際に都の守護神として
羅城門の上層に安置されていたものだといいます。
神田明神は平将門の首級が晒されたという地にある祠。
末多武利神社の前は宇治川。そして対岸には藤原北家の栄華の象徴
「平等院」。
忠文に恩賞を与えなかったのは藤原実頼。
実頼は、娘述子と長男敦敏を相次いで亡くしたことから忠文の怨霊に祟られたのだという噂がながれたのだといいます。