その十一代目の子孫は北条氏綱から無量寺ヶ谷に土地を与えられ屋敷を構えたといいます。
また、氏綱からは「綱廣」という名も与えられ、以後代々「綱廣」を名乗り現在に至っているそうです。
無量寺ヶ谷にあったという綱廣の屋敷の正確な場所は不明ですが、佐助隧道の入口付近だったといわれています。
葛原岡神社の合鎚稲荷社は、その屋敷跡といわれる場所から、今年(平成25年)移されました。
移されたといっても、もとの社をそのまま移したのではなく、新たに造ったもののようですが・・・。
無量寺ヶ谷という地名は、かつて泉涌寺末の無量寺があったことに由来しています。
『吾妻鏡』によると、無量寺では1265年(文永2年)6月3日に安達景盛の十三回忌仏事が行われています。
そして、江戸時代には「綱廣谷」と呼ばれるようになったといいますが、地名にもなった綱廣の屋敷がどこにあったのか不明というのは、どういうことなのでしょうか・・・
不思議です。
葛原岡神社の合鎚稲荷社があった場所は、世界遺産ガイダンス施設としての整備事業が進められている場所のようです。
昭和60年に発行された沢寿郎先生の『知られざる鎌倉』には、「15、6年前まで「正宗稲荷」の祠があったものです」と書かれています。
この「正宗稲荷」というのが葛原岡神社に移された合鎚稲荷社のことなのかと思われます。
『知られざる鎌倉』には、正宗稲荷の祠や鳥居の写真が載せられています。
~参考~