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2011年10月26日水曜日

俣野景久が領した俣野郷の史跡巡り

俣野景久は、鎌倉権五郎景政が開発し伊勢神宮に寄進した大庭御厨の下司をしていた大庭氏の一族。

俣野郷は、横浜市戸塚区から藤沢市にまたがる地で大庭御厨の一部でした。

景久は、1180年(治承4年)の石橋山の戦いで、兄大庭景親とともに源頼朝に敵対し、頼朝の寵臣佐奈田与一義忠と戦い長尾定景の助勢を受けて義忠を討ち取っています。


俣野観音堂
(横浜市戸塚区俣野町)


景久と兄景親は、石橋山の戦いでは頼朝を破りますが、その後、頼朝が大軍を率いて鎌倉に入り、富士川の戦いで平家軍を退けると逃亡します。

兄景親は、河村郷に逃れますが降参し、上総広常に預けられた後、片瀬で処刑されました。

(参考:明暗が分かれた大庭兄弟(景義と景親)~石橋山の戦い~

一方、景久は逃亡を続け平家軍と合流しますが、加賀国で最期を遂げたといわれています。

俣野観音堂に安置されている十一面観音像は、死を覚った景久が故郷俣野郷へ送ったものと伝わっています。


十一面観音像
(戸塚区役所ホームページより)


俣野観音堂の裏には境川が流れ、田園地帯が広がっています。


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俣野観音堂から境川を渡ると藤沢市西俣野です。


左馬神社
源義朝を祀る神社といわれています(参考:鯖神社(湘南台))。

源義朝を祀る神社が何故ここにあるのかは不明ですが、大庭氏は、1156年(保元元年)の保元の乱までは義朝に従っていました。

1159年(平治元年)の平治の乱以降に平家に従っていたといいます。


(参考:湘南台にある鯖神社)


今田鯖神社

境川流域には「サバ神社」という名の神社が12社あるという。


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花應院

花應院は、鎌倉公方足利持氏に対して謀叛を起こした小栗満重(小栗判官)の伝説が残されている寺です(参考:遊行寺)。





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瞽女淵(ごぜぶち)の碑と水難除碑(土手番さま)




西俣野付近を流れる境川は、曲がりくねっていて淵が出来やすい場所だったといいます。

「瞽女」(ごぜ)とは、盲目の芸人のことで、延宝年間(1673~1681年)、一人の瞽女がここで溺死してしまいます。

その後も淵で死ぬ者が多かったため、村人によって淵が埋められたのだと伝えられています。

しかし、村人が埋めた淵は、境川の洪水の度に元の淵に戻ってしまいます。

1845年(弘化2年)、西俣野の地に流れ者の侍がやってきました。そしてこの侍、境川の流れを抑えようと人柱になって死んだといいます。

自らが犠牲となって水の霊を慰めたのです。

しかし、境川の洪水は収まりませんでした。

それは、「犠牲となって死んだ侍は、村人によって墓に埋葬されたのですが、その墓からでは川の土手番ができない」という理由からだったといいます。

そこで村人は、土手の近くに墓を移したのだと伝えられています。それが水難碑(土手番さま)だということです。

現在は、「瞽女淵の碑」と一緒に置かれています。

花應院には、村人の犠牲となって死んだ侍の大小の刀が残されているそうです。

また、花應院の北にあったという閻魔堂の跡には、土手番さまと瞽女の墓塔が残されされているそうです。


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御嶽神社

御嶽神社は西俣野の鎮守です。

鎌倉権五郎景政や俣野景久が崇敬したと伝えられています。




境内には稲荷社鐘楼が・・・



そして猿田彦大神の石廟があります。

石廟は1680年(延宝8年)の造立とされ、藤沢市の重要文化財に指定されています。

廟の三面の壁には、花應院、文殊院と村人48名の名が刻み込まれ、屋根には二匹の猿が浮き彫りされています。


御嶽神社の全面には田園風景が・・・


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小御嶽神社
残念ながら、どのような由緒なのか不明です。


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神明社

鎌倉権五郎景政三浦義澄が崇敬したという神社です。



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 歴史めぐり源頼朝



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