(甲斐善光寺)
源実朝は、1192年(建久3年)8月9日に誕生(参考:源実朝の誕生)。
1203年(建仁3年)、比企氏の乱によって将軍職をおわれた兄頼家を継いで征夷大将軍となります。
『吾妻鏡』によると・・・
9月7日に従五位下征夷大将軍の宣旨が下されたことが記されています。
そして、10月8日、北条時政の名越亭で元服の儀が執り行われ、名を「千幡」から「実朝」に改めました。
12歳でした。
10月24日には右兵衛佐に任じられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~実朝の昇進~
その後の実朝は、次々に昇進を重ねていきました・・・
1204年(建仁4年)1月7日
・・・従五位上
1204年(建仁4年)3月6日
・・・右近衛少将
1205年(元久2年)1月5日
・・・正五位下
1205年(元久2年)1月29日
・・・右近衛中将
1206年(建永元年)2月22日
・・・従四位下
1207年(建永2年)1月5日
・・・従四位上
1207年(承元元年)12月9日
・・・正四位下
1209年(承元3年)4月10日
・・・従三位
1209年(承元3年)5月26日
・・・右近衛中将
1211年(承元5年)1月5日
・・・正三位
1212年(建暦2年)12月11日
・・・従二位
1213年(建保元年)2月27日
・・・正二位
1216年(建保4年)6月20日
・・・権中納言
1216年(建保4年)7月22日
・・・左近衛中将
この年の9月18日、北条義時は大江広元を呼んで実朝の昇進について密談し、9月20日、広元が義時の使いとして実朝を諫めますが・・・、
実朝は、
「源氏の正統は実朝の代で絶えるから、せめて官職を帯び、家名を上げたいと思う」
と答えたといいます。
この言葉のなかには、後継者には「後鳥羽上皇の皇子」という実朝の深い考えがあったのだという説があります。
そして、実朝は、翌々年になると、めざましい昇進を遂げることになります。
1218年(建保6年)1月13日
・・・権大納言
1218年(建保6年)3月6日
・・・左近衛大将
1218年(建保6年)10月9日
・・・内大臣
1218年(建保6年)12月2日
・・・右大臣
このめざましい昇進は、「後鳥羽上皇による『官打』であった」とする説があります。