『吾妻鏡』によると、1234年(文暦元年)7月27日、四代将軍藤原頼経の室竹御所(源鞠子)が死産の末亡くなりました。
32歳でした。
(妙本寺)
ここには竹御所の館がありました。
竹御所は、館跡に建てられた新釈迦堂に葬られたのだといいます。
新釈迦堂は江戸時代に祖師堂の左側に移築されますが、関東大震災で倒壊してしまい、現在は霊宝殿が建てられています。
~比企氏の乱と実朝の暗殺~
竹御所は、二代将軍源頼家の娘で、母は比企能員の娘若狭局といわれ、比企氏の乱の前年1202年(建仁2年)に誕生しています。
1203年(建仁3年)9月2日、比企氏の乱が起こると、母若狭局と兄一幡が殺され、父頼家も翌年暗殺されました。
その後、北条政子の庇護を受け、三代将軍源実朝(叔父)の猶子となりますが・・・
1219年(承久元年)には、兄公暁が実朝を暗殺し、三浦義村によって討たれました。
(妙本寺)
竹御所の兄一幡は、母若狭局とともに比企氏の乱で命を落としました。
~唯一人の源頼朝の血筋~
1225年(嘉禄元年)、北条政子が亡くなると、政子の葬儀や仏事を中心となって行い、政子の後継者であることを印象づけます。
御家人たちも、源頼朝の血筋として尊崇したといいます。
1230年(寛喜2年)12月9日、28歳のときに四代将軍藤原頼経(13歳)に嫁ぎ、源頼朝の血を引く御台所が誕生しますが・・・
1234年(天福2年)7月27日、男子を死産し、竹御所も死去してしまいました。
これによって、源氏の正統な血を引く者がいなくなったことになります。
『北条九代記』によれば・・・
1234年(文暦元年)7月26日、竹御所は、お産のため相模守時房邸に入ります。
そして27日の明け方(午前4時頃)にお産しますが、産まれたのは死んだ胎児だったそうです。
その後、竹御所は心身を悩まし、意識を失い、午前8時ころに息を引き取ったといいます。
妙本寺の寺伝では、鞠子は「よし子」となっているようである(「よし」は「女」偏に「美」と書く)。
源頼朝の血筋
長女大姫・・・
1197年(建久8年)7月14日死去
(参考:岩船地蔵堂)
次女三幡(乙姫)・・・
1199年(正治元年)6月30日死去
(参考:畠山重忠邸跡)
長男頼家・・・
1204年(元久元年)7月18日暗殺
(参考:修禅寺)
次男実朝・・・
1219(承久元年)1月27日暗殺
(参考:源実朝の暗殺)
孫一幡(頼家嫡男)・・・
1203年(建仁3年)9月2日討死
(参考:比企氏の乱)
孫公暁(頼家次男)・・・
1219年(承久元年)1月27日討死
(参考:源実朝の暗殺)
孫栄実(頼家三男)・・・
1215年(建保2年)12月13日自殺
孫禅暁(頼家四男)・・・
1220年(承久2年)4月14日誅殺
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