源範頼は、源頼朝の異母弟です。
母は遠江国池田宿の遊女だったといわれています。
1159年(平治元年)の平治の乱後、藤原範季に養育されたことから、その一字をとり「範頼」と名乗っています。
範頼は、源平合戦(治承・寿永の乱)では、源義経とともに頼朝の代官として活躍しています。
源平合戦では、どうしても義経の活躍の方が上に置かれてしまいますが、範頼の活躍なくして壇ノ浦に平氏を滅ぼすことは難しかったと思われます。
頼朝も範頼を信頼していたようです。
その証拠に、一ノ谷の合戦後の1184年(元暦元年)6月、頼朝の推薦によって朝廷より三河守に任じられています。
(他に2人の源氏が国司に任命されていますが、鵯越の奇襲攻撃で知られる義経には、頼朝の推薦はありませんでした。)
源頼朝は、平氏を討つために西国へ向かう範頼を、稲瀬川に桟敷を作って見送ったといいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
木曽義仲を追討し、一ノ谷の合戦で平氏を破った後、一時鎌倉に帰還していた範頼は、1184年(元暦元年)8月8日、再び平氏追討に向かいます。
同年9月2日、京都を発った範頼でしたが、兵糧米が不足し、軍の士気が著しく低下してしまうという事態に陥ってしまいます。
侍所別当の和田義盛も鎌倉に帰ろうとしていたことが『吾妻鏡』には記されています。
そんな苦境を乗り越え、1185年(文治元年)正月26日、何とか九州に渡った範頼は、平氏の背後を固めます。
義経の奇襲攻撃で知られる屋島の合戦の際には、範頼が背後にいるため平知盛は長門を動くことが出来なかったといいます。
こうして、範頼と義経に挟み撃ちされた平氏は、3月24日、壇ノ浦に滅亡しました。
源頼朝の武家政権樹立にとって大きな働きをした範頼でしたが・・・
1193年(建久4年)、頼朝は富士の巻狩を催します。
その折、曾我兄弟の仇討ちが起こりました。
(何だかよくわからない成り行きですが、北条政子の陰謀とする説もあります。)
8月2日、範頼は疑いを晴らすため頼朝に起請文を提出しますが、起請文の署名に「源範頼」と書かれていたことから、
頼朝は「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」といって激怒したといいます。
8月10日、範頼の家人当麻太郎という者が頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝室の床下忍び込みますが、捕らえられてしまいます。
当麻太郎は範頼が頼りにしていた武士として知られていました。
8月17日、当麻太郎の行いによってますます立場の悪くなった範頼は、捕らえられ伊豆修禅寺に幽閉されました。
間もなく梶原景時に攻められ自刃したと伝えられています。
(伊豆:修善寺)
しかし・・・
範頼には各地に生存説が残されています。その一つに横浜市金沢区にある太寧寺があります。
金沢区の太寧寺には、修禅寺を逃れた範頼が、鎌倉の知られるところとなり太寧寺で自刃したと伝わっているそうです。
範頼の法号は「太寧寺殿」。
金沢区の称名寺門前にある真言宗の寺です。
この寺の本尊は範頼の念持仏と伝わる薬師如来です。
範頼の位牌も安置されているということです。
その名は、蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれた範頼の伝説からといわれています。