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2011年5月7日土曜日

キリシタンたちの旦那寺~鎌倉:光照寺~


一遍の法難霊場として知られる山ノ内の光照寺は、鎌倉に密かに潜伏していた「キリシタンたちの旦那寺」と呼ばれていたそうです。


光照寺山門

梁の下に「中川久留子(くるす)」と呼ばれる十字架の紋が掲げられているため「くるす門」と呼ばれています。


クルス紋(中川久留子)

光照寺の山門は、九州豊後国岡藩主の中川氏が建てた東渓院の山門が移されたものです。

東渓院は台にあった臨済宗の寺でしたが明治期に廃寺となりました。

中川氏は、キリシタン大名だったといわれています。

光照寺本堂には、キリシタンが持ち込んだという燭台も残されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


江戸時代には、キリスト教に対する禁教令が出され、キリシタンでないことを証明するための「寺請制度」がありました。

人々はいずれかの寺を菩提寺として、その檀家にならなければなりませんでした。

そして、寺は、幕府の命によって檀家を監視する義務を負わされていました。

しかし・・・、

光照寺に「キリシタンの燭台」が、東慶寺にイエス・キリストの略字を表す「IHS」が刻まれた「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」が残されているように、寺はキリシタンだと知っていてもそれを黙認していたのでしょう。


光照寺の「燭台」

東慶寺の「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」


鎌倉にキリシタンが入って来たのは、1590年(天正18年)、徳川家康が江戸を開府してから。

江戸浅草近在のキリシタンが鶴岡八幡宮の警備のための人足に混ざって鎌倉に移住してきたといわれています。

1623年(元和9年)、浅草から巡回にきていた神父フランシスコ・ガルベスが、懸賞金目当ての漁師に密告され坂ノ下で捕らえられました。

その後、小袋谷にあったキリシタン伝道所のヒラリオ孫左衛門夫妻らとともに、江戸小伝馬町の牢に入れられ処刑されています。


現在、鎌倉には多くのキリスト教会がありますが、鎌倉は、面積当たりのキリスト教系の施設が長崎に次いで多い場所といわれています。




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