別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年8月17日水曜日

源頼朝挙兵の日


平治の乱の敗北によって、伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)8月17日に平氏打倒の挙兵をします。

まずは、伊豆国の目代山木兼隆を討つことになるのですが・・・


蛭ヶ小島


『吾妻鏡』によると・・・


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~挙兵の日の決定~

8月6日、頼朝は、藤原邦通と住吉昌長を呼んで占いをしています。

その結果、挙兵の日を8月17日早朝と決定しました。

そして、工藤茂光、土肥実平岡崎義実、宇佐見祐茂、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉などを順番に部屋に呼んで、合戦の事を教え、「汝らを頼りにしている・・・」という言葉をかけました。

これは、皆を心を一つして行動させるための頼朝の作戦でした。

本当のことは、北条時政しか知らなかったのだといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~合戦前日~

合戦の前日は一日中雨でした。

佐々木四兄弟には、この日に到着するよう言ってありましたが、未だに到着していません。

頼朝は、人数が集まらないので、明日の合戦を躊躇していたといいます。

しかし、日延べするにしても・・・

18日は、幼児のころから観音さまを祀って祈る日となっていますので、合戦はできません。

19日になれば、密事が世間にばれてしまうでしょう。

そして、佐々木四兄弟は、平家の家人渋谷重国に面倒をみてもらっているので、彼らに密事を漏らしたことを後悔したのだとか・・・。


📎観音信者だった源頼朝




早川城址
(綾瀬市)

早川城は、渋谷重国の居城です。

重国は、平治の乱後、奥州へ逃れようとする佐々木秀義と、子の定綱経高盛綱の四兄弟を匿っていました。

頼朝の弟阿野全成も匿われていたといいます。

(参考:渋谷重国と佐々木四兄弟~石橋山の合戦~



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~合戦の日~

8月17日の午後になって佐々木四兄弟が到着しました。

定綱経高は疲れた馬で、盛綱は徒歩での到着です。

頼朝はとても喜びます。

そして、涙を浮かべながら、

「お前達の遅刻で、予定していた今朝方の合戦が出来なかった。残念である」と語ります。

佐々木四兄弟は、「洪水のため遅れました」と申し上げ、謝罪したといいます。


その晩、頼朝山木館を攻めさせます。

加藤景廉佐々木盛綱は、留守番として頼朝の傍らにいました。

まず、佐々木定綱経高高綱の三人が、山木兼隆の後見役堤権守信遠を討ちます。

このとき、経高の放った鏑矢が、平氏を征伐するための最初の矢でした。

その後、佐々木兄弟は、山木兼隆襲撃の軍に加わります。

頼朝は、「戦が始まったら火をつけるように」と命じていましたが・・・、

その火がなかなか見えないので、留守の加藤景廉佐々木盛綱堀親家らを山木館へ向かわせました。

景廉には、長刀を与え、「兼隆の首を討って持参すべし」と命じています。

そして、盛綱景廉は、兼隆の屋敷内に入り、見事に兼隆を討ち取ります。

兵達が帰ってきたのは、18日の明け方でした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵

源頼朝


源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃

源頼朝挙兵の日


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