別冊『鎌倉手帳』

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鎌倉の歴史にかかる関係地・寺社の情報も。




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2017年8月9日水曜日

三代将軍源実朝

 白旗神社
(鶴岡八幡宮)

源実朝は、源頼朝北条政子の次男。

鎌倉幕府三代将軍。

実朝は、頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192年(建久3年)の8月9日に誕生しました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『吾妻鏡』によれば・・・

1192年(建久3年)4月2日、政子が懐妊し、安産祈願としての「着帯の儀」が執り行われました。

帯は平賀義信の妻が用意し、頼朝自らが帯を締めたといいます。

7月8日、出産間近となった政子は、産所とした名越の浜御所(はまのごしょ)に移ります。

(※浜御所とは、北条時政邸のことなのかと・・・?)

8月9日、朝早くから政子が産気づくと頼朝は、鶴岡八幡宮や相模国の神社仏寺に神馬を奉納し、安産のための誦経をさせています。

📎政子の安産祈願所


 鶴岡八幡宮


そして、午前10時頃、無事に男児(実朝)が誕生!

悪魔払いのため、弓を鳴らす「鳴弦」と、鏑矢を放つ「引目」の儀式が行われます。

北条義時らは護刀(まもりがたな)を献上しました。

また、大江広元らによって刀と馬が献上され、これらが加持祈祷を行った験者や寺社に与えられています。

次に、乳母である阿波局が乳を与える役として参上しています。

阿波局は、政子の妹で、頼朝の異母弟阿野全成の妻です。

そして、御名字定めがあって「千万」と名付けられました。

(一般的に幼名は「千幡」という字が使われているようです。)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~三代将軍~

1199年(正治元年)正月13日、父頼朝がこの世を去ります。

そして、兄頼家がその家督を継ぎました。

しかし、頼家の側近としてその勢いを増す比企氏と、母政子の実家である北条氏との対立が深まっていくことになります。

頼家を廃して、千幡(実朝)を将軍の座に据えたい祖父北条時政は、1203年(建仁3年)、頼家が重病になったのを機に、比企能員を自邸に誘き出し暗殺。

同時に比企邸を攻めて比企一族を滅ぼしました(比企の乱)。

この事件によって頼家は失脚。

その跡を継いだのが千幡(実朝)でした。

乱後、頼家は伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されています。




その後も北条氏は頼朝以来の有力御家人を滅ぼしていきます。

1205年(元久2年)、畠山重忠北条時政の策謀によって二俣川で最期を遂げました(畠山重忠の乱)。

乱後、北条時政も鎌倉を追放されました。

1213年(建保元年)には、北条義時に挑発された侍所別当の和田義盛が反乱を起こして滅亡しています(和田合戦)。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~和歌に優れた源実朝~

1203年(建仁3年)、12歳で将軍となった実朝は、翌年、坊門信清の息女と結婚しました。

初めは足利義兼の娘との結婚話が進められていたようですが、実朝の強い希望により公卿の娘が選ばれたそうです。

将軍になったとは言っても、政治の実権は母北条政子や叔父北条義時に握られていました。

次第に傀儡将軍であることを自覚していく実朝。

貴族趣味的な側面が大きくなっていきます。

1205年(元久2年)、14歳の実朝は京より『新古今和歌集』を取り寄せます。


 金槐和歌集


1208年(承元2年)、17歳になった実朝は疱瘡を患い「あばた顔」になってしまったそうです。

その顔を見られたくなかった実朝は20歳になるまでの3年間、一切外出をせず、鶴岡八幡宮の参拝も止めてしまったといいます。

しかし、その間、和歌の道の精進を重ね、1209年(承元3年)、自らが作った和歌10首を『新古今和歌集』の撰者の一人だった藤原定家に送って批評を願っています。

1211年(建暦元年)には、水難に嘆く民衆を心配し、「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」という歌を詠んでいます。

そして、家集『金槐和歌集』を編纂します。

1213年(建保元年)頃のことだったと伝えられています。

「金」は「鎌倉」を表し、「槐」は「大臣」を意味しているということから、「鎌倉の右大臣の家集」と呼ばれています。


 源実朝の歌碑
(鶴岡八幡宮)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~宋に憧れた源実朝~

 鶴岡八幡宮のビャクシン


1216年(建保4年)6月、東大寺再建に貢献した宋の陳和卿が鎌倉を訪れ実朝に対面します。

陳和卿は「将軍はその昔、宋の医王山の長老であり、私はその弟子でありました」と述べたそうです。

実朝は以前夢に現れた高僧が同じ事を言っていたのでそれを信じたのだといいます。

1216年(建保4年)11月24日、実朝は急に渡宋を思い立ちます。

そして陳和卿に命じて唐船を建造させることにしますが・・・。

1217年(建保5年)4月17日に完成した船が海に浮かぶことはありませんでした。

鶴岡八幡宮の若宮社殿横に聳えるビャクシンは、実朝が宋から苗を取り寄せて植えたものなのだとか・・・。

また、円覚寺塔頭正続院舎利殿に納められている仏舎利は、実朝が宋の能仁寺より請来したものなのだとか・・・。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~暗殺された源実朝~

 源実朝公御首塚
(秦野市)

1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮では実朝の右大臣拝賀式が行われました。

参拝を終えた実朝が石段の上にさしかかると、突然、甥の公暁が襲いかかり、実朝は殺害されてしまいます(享年28歳)。


 大通寺
(京都)

大通寺は、坊門信子が実朝の菩提を弔うために創建したという寺院。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ぼんぼり祭

鶴岡八幡宮で開催される鎌倉の夏の風物詩「ぼんぼり祭」

その最終日(8月9日)は実朝の誕生日。

実朝の遺徳を偲ぶ「実朝祭」が行われます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ぼんぼり祭

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